コミュニティと自律のはざま

日曜日に龍馬伝を録画して見ていて、いろんなことを考える。
最近考えるのは、昨日のblogにもちらっと書いた、コミュニタリアニズム


幕末の人間ドラマを見ていて、特に今回の龍馬伝を見ていて強く感じるのは、正義とは何かという揺らぎ。


武市半平太坂本龍馬岩崎弥太郎桂小五郎近藤勇などがここまでに登場してきては、それぞれの考える道を進んでいる。
武市半平太の進んだ道は、土佐の下士という共同体が進んだ一つの大きなムーブメントだったと思う。それが土佐藩全体のうねり、日本全体のうねりになるように活動していた。
そころがそのムーブメントが途絶えてしまうと、武市半平太は投獄されてしまう。
ここで武市が疑いをかけられているのが、殺人の指示を出したかどうかということ。


コミュニティ(土佐勤皇党)の文化では暗黙のOKとしていたことが、コミュニティが瓦解することでOKではなくなったという話になる。


それこそ、新撰組だってそうだ。幕府を守るために人斬りだって厭わない集団が、幕府を守ることが叶わなくなるころには隊自体が瓦解する。


つまり、基本的な人の尊厳などの点で問題があるが、コミュニティとして問題ないとしていることがあったとしたら、そのコミュニティかコミュニティの旗印が瓦解することで、その問題が噴出することになる、ということだ。


しかし、ここまで考えて、また考えてしまった。


多くの場合、コミュニティの文化は自分が選択して主体的に実施していると考えている場合が多い。例えば、新撰組の隊士が「自分は人斬りをしません」とは言いにくく、自分も好んでコミュニティの文化に参加することになるだろう。そうでない人はドロップアウトする可能性が高いのである。


さらに、道徳の問題は、帰結主義功利主義ともいう)では解決しがたいことが多いため、内部からコミュニティが方向転換するにも困難がある可能性が高い。
例えば、6人1グループで誰か一人を死なせれば残り5人は死ななくていいという課題を出された時、自分が誰かを死なせたり自殺したりはしないだろう。また、例えばスペースシャトルコロンビア号の事故を考えたりすると、誰かが発射を止めようと言えば事故にはならなかったが、中止を強く発言した物は、誰もいなかった。
つまり、長期的にあるコミュニティが崩壊へ向かうとしても、その崩壊を押しとどめるための行動をとるのは道徳的な行動と受け取られない可能性が高いのである。


そうやって考えると、組織と言うのは、なかなか難しいものであるなぁ、と思う。特に、ネガティブなうねりにさらされている時の組織は、かなり大変なのだと思う。


自分は普段の業務ではリーダーとしてふるまうことが許されているから、自分の組織を全体と整合性を取りながらいい方向へ導くしかない。
今のところ、コミュニティを向かわせようとする方法と、自律的な価値観との間には一致があるので、いい感じで仕事ができている。
これからも、そうでありますように。
少し参考:http://www.nhk.or.jp/harvard/about.html