編集権ってなんだろう

こんなタイトルのブログ↓を読んだ。

新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしてた者ですが

http://d.hatena.ne.jp/shields-pikes/20080217/p1


話の筋道を簡単に言うと、
このブロガーさんは昔新聞社で読者投稿欄の原稿修正をしたことがあって、
その経験に基づけば、このブログの最終部分に紹介した、投稿時の記述から編集後の記述への変更(編集)は問題ないと考えているらしい、というもの。
ついでに、格差社会によって目立つ人や大企業を叩きたいという心理が関係しているのかもね(嘆息)、という感じのことが書いてあります。


このブロガーさんの書いていることを読んでいて、僕はとても違和感を強く覚えたのでした。


新聞社で読者投稿欄の修正をするときのルールに従うというだけだったら、
そのルールからは逸脱していないかもしれない。
しかし、メディアの持つ意味から考えて、その校正ルール自体に強い違和感を覚えたのでした。
最初に紹介したブロガーさんが新聞社で教育されたという校正ルールは、

1.読者の意見を変えるな
 → 主観的で偏った意見であっても、読者の「言いたいこと」を変えてはいけない。
2.最も大事なテーマだけに絞り込め
 → 言いたいことを1つに絞り、繰り返しや無駄な例示、脱線部分などを削る。
3.誰が読んでもわかる文章にしろ
 → 文体を整え、指示語を減らし、誰が読んでもわかるように具体的な情報を盛り込む。

だそうである。
このことは、大規模な声の群れを一つに集約する時には有効なのかもしれない。
しかし、読者の「声」欄の編集ルールとしては不適当ではないだろうか。


ヒトの書く文章には、その人一人一人が持つ独特の質感がある。言葉の選び方にも個性がある。
その二つを失わせ、意見の方向性と最重要テーマだけの論述にするなら、「声」欄なんて必要ない。「声」欄に必要なことは、一般の読者が、何をどう表現しているかと言うライブな質感なんだと思う。
もし「声」たちが、読むに堪えないほどに文章としての体を成していないのだとしたら、それはリジェクトしたりコミュニケーションしながら編集していけばいいのかもしれない。


いずれにせよ・・その人が発した「声」というものを編集権の名の下に簡単に切ってしまうことが、僕には受け入れられにくい出来事なのです。


以下に、ある新聞社で「声」欄を通じて編集された原稿を引用します。
ワタクシとしては、
・具体名をぼかしている原稿が具体名を挙げられてしまったこと
・無力感を感じているのは筆者のように見えるが、多くの国民になっていること
・原稿の後半「痛みを伴うのは当然」という発言は無責任だ という主張がまるごと消えてしまっていること
・痛みを伴わない改革にするべきであるという論調がだいぶ弱まっていること
あたりを考慮して、60点!というところですけれど。


久々に長文でした。

(当初の原文)

改革は痛みをともなうのか

 ここ数年、政治の世界では「改革」という言葉が錦の御旗のように掲げられて、多少食傷気味である。
 戦後わが国は平和の道を選び、廃虚から立ち上がって豊かな中流社会を築いてきた。そこにはそれなりの理念があった。「改革」は、その秩序を破壊して深刻な格差社会をつくってしまった。今、国民が一番閉塞感を感じるのは、「改革は痛みをともなうのが当然」と平然といってのける政治家が多いことである。そしてそれを多くの国民がなんとなく納得してしまっていることに救いがたい無力感を感じるのである。痛みをともなうことを当然視する発言の中に、弱者切り捨てという結果が潜んでいることにわれわれは気づかなければならない。
 よく考えてみると、これほど政治家として無責任な言葉はない。「手術は痛みをともなうのが当然」という外科医がいるだろうか。痛みをともなわない改革を行うのが政治ではないのか。われわれはもっと言葉の意味を吟味して、「痛み」の部分を返上しようではないか。そうしないと、このままでは格差は固定化して、アメリカ社会のように治安の悪化が常態化してしまう。


(書き直された最終稿)

改革の痛みは返上をしよう

 ここ数年、政治の世界では「改革」という言葉が錦の御旗のように掲げられて、多少食傷気味である。戦後わが国は平和の道を選び、廃虚から立ち上がって豊かな中流社会を築いてきた。そこにはそれなりの理念があったが、改革は格差社会を作ってしまった。
 「構造改革には痛みを伴う」と小泉前首相は改革を進めた。痛みは、深刻な格差社会を生んだ。しかしながら、郵政解散では自民党が大勝する。多くの国民は痛みになんとなく納得したようで無力感を感じた。そして、先の参院選でやっと痛みの後遺症に気づき始めたのだろう。
 今回の自民党の総裁選ではどうだろう。福田康夫官房長官は「格差が開きすぎるのは弊害だ。ただ、改革は続行する」。麻生太郎幹事長は「構造改革によって生じた暮らしの不安と格差の解消を急ぐ」という。
 痛みを伴わない改革か、その言葉の意味を吟味したい。そして、痛みをきっぱりと返上しよう。このままでは格差は拡大、そして固定化されてしまいかねない。
(「構造改革.......」以下は書き直された部分)
以上は、http://www.news.janjan.jp/media/0802/0802150846/1.php から引用