中2自殺・変わらぬ隠蔽体質

福岡、中2自殺:変わらぬ隠蔽体質・心の痛み共感できない学校

 福岡県筑前町立三輪中学校の2年生の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺した問題で、同校校長は16日、1年当時の担任による言葉のいじめを認め、全校集会が開かれた。文部科学省は過去のいじめ自殺で、いじめの定義を変更するなど、隠蔽(いんぺい)体質になりがちな学校の対応の変化をうながしてきたが、いじめが原因の自殺はこの7年間、統計上ゼロ。子供の心の痛みを共感できない学校や教師に関係者からは批判の声がでている。  《解明困難…「いじめ自殺7年連続ゼロ」》  文科省は、いじめの定義について、(1)自分より弱いものに一方的に(2)身体的、心理的な攻撃を継続的に加え(3)相手が深刻な苦痛を感じている−としている。  昭和61年、東京都中野区立中野富士見中2年、鹿川裕史君=当時(13)=が、担任教師まで加わった“葬式ごっこ”などのいじめを苦に自殺した事件を踏まえて定義されたものだ。  さらに平成6年、愛知県の西尾市で市立東部中2年、大河内清輝君=同(13)=がいじめを苦に自殺。この事件後、同省はいじめの定義にあった「学校としていじめの事実関係を把握しているもの」の文言を削除。「遺書などで『いじめられた』と子供が訴えれば、具体的な事実関係を厳密に特定するまでもなく、いじめがあったと認定する」(同省)ことで、隠蔽されがちないじめに対する学校の対応の変化をうながした。  文科省の統計では、小、中学、高校のいじめは年間約2万件以上。一方、児童生徒の自殺は年間100人以上で推移している。しかし、いじめを主たる理由とする児童生徒の自殺件数は、平成10年に千葉県成田市の中学2年生が自殺した事件を最後に17年までの7年連続ゼロだ。  同省では「自殺の原因を学校で特定するのは、非常に困難だ。特にいじめの場合、教師の目を盗んで行われる場合もあり正直、遺書がなければいじめと特定することは困難」と話す。  しかし、北海道滝川市のいじめ自殺では遺書にいじめの記述がありながら市教委と学校が「いじめがあったか確定できない」としていた。  同省では、滝川市のケースで自殺の3週間前にも同クラスで修学旅行のグループ分けをめぐり3回にもわたって話し合いが行われたことについて、「自殺した生徒にすれば、教師も加わっていじめられたように感じるだろう。福岡の担任にも言えることだが、校長でもいい、教委には指導主事もいる。なぜ、『指導としておかしい』と担任を正さなかったのか」と学校運営の問題点を指摘。ある文科省の幹部は「こうした事件が起きる学校は必ずといっていいほど『担任任せ』もしくは『校長排除』の空気がある。情報の風通しが悪く、組織一丸となった対応に鈍い」と話す。                    ◇  《校長、「いじめ」を「プレッシャー」と表現》  福岡県筑前町立三輪中学校のいじめ自殺問題で、合谷(ごうや)智校長が16日朝の全校集会で、他の生徒によるいじめを「プレッシャー」と表現していたことが分かった。  合谷校長は午後に町役場で開いた記者会見で「男子生徒に対するいじめがあった」との認識を改めて示した上、「子供たちの姿を見て、いじめという言葉が出てこなかった。わたしの弱さだ」と釈明した。  全校集会は生徒の自殺を受け、午前8時半すぎから約30分間、報道機関に非公開で開いた。会見によると、合谷校長は生徒らを前に「君たちがプレッシャーを与えることはあった。そのことに対して『ごめんなさい』と謝る気持ちが大切です」と発言したという。  不適切な発言でいじめたとされる元担任は、全校集会は体調不良を理由に欠席。合谷校長は学校側の非を認め、生徒たちに謝罪した上で、「これからは『先生、そんなこと言ったら傷つくよ』と話し、みんなで優しい人間になっていこう」と話したという。  一方、合谷校長は「マスコミやインターネットで出ている学校と違うと知っているのは君たちとわたしたち。振り回されてはいけません」とも発言したという。会見では「ネットの書き込みに目を覆いたくなる内容があった」と述べ、「マスコミ」の問題を指摘した言葉は削除するとした。  遺族が学校側の説明に納得していない点について、合谷校長は会見で「(原因究明への)情報収集で学校が遅れているなと思う。大変申し訳ない」と釈明。「経験したことのない事態で、今までの三輪中の組織力ではもう限界を超えている」と話した。  一方、文科省は16日、福岡県教委に職員を派遣し、教諭の関与について調査に乗り出すことを決めた。                    ◇  埼玉県教育委員の高橋史朗・明星大教授の話  「最大の問題は、子供と心のキャッチボールができず、心の痛みを共感できない教師の存在だ。教師に求められるのは知識・技術の伝達だけで、『時代が要請する教師像とは何か』という視点が戦後教育からすっぽり抜け落ちていた。このため、子供を不用意に傷つける教師の言動が増えている。今、教育現場に問われているのは教師自身の人間力。望ましい教師像とは何かを改めて考え、教師の養成、採用、研修に努めるべきだ」  プロ教師の会を主宰する河上亮一・日本教育大学院大教授の話  「学校社会には、教師が教え、生徒が学ぶというある種の上下関係が必要だが、この関係を誤解する教師がいる。自分が偉いと思い込み、生徒に横暴に接するのだ。今回の事件も教師の側に問題があったことは否めない。ただ、教師や学校を非難するだけでは根本的な問題解決にならない。どんな学校にもトラブルやいじめは存在する。その現実から目をそらさず、家庭や地域も積極的に学校運営に関与すべきだ」 (産経新聞) - 10月17日8時1分更新

 この記事の校長のコメントがまた・・・。
「君たちがプレッシャーを与えることはあった。そのことに対して『ごめんなさい』と謝る気持ちが大切です」「これからは『先生、そんなこと言ったら傷つくよ』と話し、みんなで優しい人間になっていこう」って何ですか???
 両方の発言とも、自分が教える立場から降りていないですね・・・。
 しかも、大切だと諭そうとしている「謝る」行為を担任教師に命じることができないという時点で、、校長先生の存在意義が薄れていると思う。
 また、生徒にばかり改善策を言うのはお門違い。そんなことをしたら、生徒自身が「しょぼい先生にあたっても、自分たちが指摘したり我慢したりしなきゃいけないんだ」と思ってしまう。教員側の改善点を列挙することが大前提。
 なんなんだ、これ。


 僕は、日本の教育システムは転換期にあると考えています。教育内容としては、戦後すぐの教育課程からそろばんを排したことなど、基礎学力をつけるためのメソッドを放棄したことに問題があると思います。(←今そろばんをやれと言っている訳ではないです。)また、国語において情緒や感情に関する指導要領が重視されていないのは問題で、小説が読めても、随筆が読めても、古文が読めても、漢文を音読できても、その背景にある人間の心のひだを理解できるような教育が必要と考えられてこなかったことに問題があると思います。「詠嘆」という言葉を知っても、詠嘆という言葉が示す状態を知らなければ意味が無いのです。
 ただ、教育内容よりももっと問題があるのは、義務教育教員および公立高校の人事システム。様々な人と話していて、人事が学生教育と直結していると実感してない教員が多いように感じます。教育委員会や校長が全ての人事権を掌握するとか、教員同士の結婚でなければ希望の地域での配属がないとか、そういったくだらない人事が起こらないようにしなければいけないと思うのです。(そういう現場がどれくらいあるかは知りませんが、どうもありそうに聞こえます)
 立場による圧力ではなくて人格や教養による畏敬の念によって教師の存在が認められるようでなければ。
 そして最も考えを改めるべきなのは、医師や教員、弁護士などの「先生」と呼ばれる職業の人たちを性善説または聖人君子であるかのように取り扱うことです。もちろん、高い礼節や教養を兼ね備え、日本的ノブレス・オブリュージュを持った存在であれば何も言うことはありません。けれど、現在の人事システムでは、大学の医学部や教育学部に入って、試験に通過すればその職業になれるわけです。礼節や教養、人を慮る態度を備えているかどうかを知る術はありませんし、全く関係ないと言っても過言ではないでしょう。
 またよく、「学校の先生の仕事は授業だけではない」という反論を聞きますが、授業ができた上で他の事業を行うのが普通なわけで、他の仕事がそんなに必要ならば他の仕事を専門にするポストを教育委員会で新設すればいいのです。


 僕は、いじめ自殺は心の過労死だと思っています。過労死を防ぐための方法だって、どこかにあるかもしれない。けれど、死んだ人が悪いなんていうことは、絶対にありません。たとえ一瞬でも「死んだ方がマシ」だと思わせるような環境にしてしまったことは、事実なのです。価値観が形成される途中である子供の場合、いじめは大人が止めなければいけないと思います。もしも・・「知らない」って言えば自分の責任が免れて幕引きって思っているんじゃ・・・教育職、辞めたほうがいい。