コミュニケーション論のこと

そんな、コミュニケーションについて講義をすることについて、自分のスタンスを少し記述しておこうと思いました。以下にメモ。

10年くらい前、「没コミュニケーションの時代」とか「没個性の時代」と呼ばれてきました。けれど、もうそんなことを言う人は少数派になってきています。むしろ、個性を尊重しコミュニケーションを能力として認める風潮が強くなってきています。
過去、規律訓練型の教育においては、個性やコミュニケーションは無駄とされるものだったわけですが、つい先日まで教育方針として存在していた「ゆとり教育」は個性を重視した教育方針だったわけですから、当たり前といえば当たり前でしょう。

 個性は、能力という一次元の評価軸で測定可能なものではありませんから、個性は自己主張することで初めて認識され、評価の対象になります。そう考えると、プレゼンテーション能力、ディベート能力、理解力などの(広汎な意味での)コミュニケーション能力が付随することが、個性の発現に深く関係すると言えましょう。
 一方で、教育論を語る時に、多くの教育学者はコミュニケーション能力の低下や国語力の低下を問題にしています。このような問題点の指摘は重要であると思うのですが、これらのコミュニケーション能力が「なぜ必要なのか」を議論することなく実態(しかもやや誇張された実態)だけを指摘する手法には疑問を感じます。
 そもそも私は、人々のコミュニケーション能力は低下しているのではなく、コミュニケーション能力の要求水準が上がってしまっているのが、現代社会なのだと感じます。例えば、医療従事者の業務でも、大規模な病院が多くなり、高度医療が増えました。結果、1回の受診で関る人は医師一人ではなくなっています。検査だけをする人、情報提供だけをする人、患者の生活を援助している人、様々な人がいて、それぞれの役割に応じた情報の交流が必要になっています。  そんな患者と医療従事者の関係では、基本的に医療従事者は自己開示をしません。自己開示をしないコミュニケーションでは、却って円滑に物事を運ぶためのコミュニケーション能力が必要になります。それは、ただ単に無機質な関わりでは安心できないと感じてしまう人が多い世の中であるため、コミュニケーションによって安心感を補完する必要が(職務遂行上)必要なのだ、と僕は考えています。
 なお一方で、友人や職場の同僚など、自己開示することが人間関係を円滑にするような相手の場合には、コミュニケーションは単なる能力とはいえなくなると思います。自己開示や他者の解釈を多く含む場合には、結局のところ自己評価や他者への信頼の度合いによってコミュニケーションの結果(人間関係の円滑さ)が変動する場合が多いと思われるからです。
 大学で、私はコミュニケーションのあり方について講義をすることになっているわけですが、実はコミュニケーションのあり方を学ぶことはコミュニケーションの円滑さにはあまり貢献していなくて、人間関係から経験をつみ、自信をもつための一つのきっかけだと考えています。化粧をしたら表情まで豊かになることがあるように、コミュニケーションの方法を磨いたら自分に自信がもてるようになる、そんな講義をしたいなと思っています。

それだけのことを1コマで伝えるのは無理ですが、まぁ授業の態度から伝わるかなと楽観しています。