新渡戸稲造と宮沢賢治を思う

仕事納めの今日は、久々に真面目な話。


僕に限らず、岩手県出身の人のほとんどは少年期に新渡戸稲造宮沢賢治石川啄木などの郷土の賢人(など)について知る機会があります。
僕の場合もご多分に漏れず、小学校6年生のときに原敬のことを自由研究のテーマにして、高校生のときに新渡戸稲造にあこがれた文章を書いた、そんな少年でした。


大人になった今でも、新渡戸稲造宮沢賢治のことを思うことがあります。ヒューマニズムに立脚して生きるときにどのような生き方があるかを僕に教えてくれた2人だと思うからです。
国際的な視野から自分のいる世界(国とか地域とか)を考えてみたり、地元で生きる人たちのために勉強会(自主ゼミ)をしてみたり。これらの行動は、きっと新渡戸稲造宮沢賢治に育まれた考え方なのでしょう。


noblesse oblige.*1 8月にアメリカで武士道を説明したときに、現地にいたクリスチャンが思わず口にした言葉です。富める者が貧しきものに施しものをする以外にも、社会に対して貢献をすることはできる。心豊かな者は、自分だけでなく地域社会を愛し育むことができるのではないか、そう思うのです。
僕が心豊かな者かどうかは別として(笑)、少なくとも僕が目指しているものは、日本的なnoblesse obligeのあり方探しなのかもしれません。


学生の教育や研究の社会的実践という、研究者にとってのノブレス・オブリージュの履行が現実的にもっとも効果的であるためにはどうすべきか。今でも結論は出ていませんが、来年には開けてくる話題のような気がします。


それでは、よいお年を!

*1:身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」との意味