秋葉原のことについて少し書いてみる

1週間前に秋葉原で起きたことについて、少し書いてみようと思います。
なお、ここに書く考えの一部は、これまでに様々なニュース記事などで記載された文章の影響を受けている可能性があります。
著作権とかには配慮して書くようにしますが、他と重複していたらゴメンなさい。
(もちろん、指摘があったら早急に変更する予定です)


最初に注釈:こういった事件が起きたときには、その後のケアのことを報道したり考えたりすることを積極的に行うべきだと思います。原因探しをすることは簡単だしセンセーショナルになるのだけれど、結局のところ不安を煽るだけになってしまうと思うのです。




多くの事件について、僕は、加害者のことを特別扱いしない考え方を持っているようです。
秋葉原で起きた事件についても、僕は、特別な人の特別な犯行とはあまり思えませんでした。
(ただし私は、殺人は許すことが出来ないというポリシーも持っていますので、特別な人の犯行じゃないという記述は、その人の犯した行為を容認できると言うものではありません)


報道されている「ネット上への書き込み」がほぼ全て加害者自身の書き込みだとしたら、加害者となった方には希望の見えにくい環境になってしまっていたのだと思います。
そのことの全てが加害者たる方の自己責任だとは言えないでしょう。例えば派遣というシステムに、希望の見えにくさの一因を見いだすこともできるでしょう。例えば携帯電話という情報ツールの普及が、自分の置かれている状況を否応なく突きつけているという見方もできなくはないでしょう。


でも。
仮に、恵まれない環境に陥ってしまったとしても。
他殺という手段をとってしまうという事は許されることではないし、わざわざ、目立つこと、多くの人を巻き添えにすること、を選んだと言うことは幼稚にすら見える行為だと思いました。


自分が恵まれない環境にいるときに、誰かを傷つけてわめく。それって、ロクなことじゃない。
自分の人生は、自分で受け入れるしかない。
少なくとも大人になってからは、喚いたら誰かが助けてくれるなんて、絶対におこらない。


(少し話を変えますが、ラスト・フレンズで登場するDVオトコの描写は、誰かを羨ましがり傷つけ泣き喚いている子供のような描写に見えます。幼稚な万能感を卒業できず、万能感は誰かに与えられるとでも思っているかのような描写だったように見えます。燃え尽きているわけでもないように、見えますし。)


生老病死の苦しみは受け入れなければならないのだと、思うのです。


人間関係としてのセーフティネット

現実問題として、年間3万人を超える自殺者がいることや、今回のような事件がおきていることを踏まえた何かを、考える必要があるのかもしれないなとも思います。
よく、社会としてのセーフティネットが必要だと言いますが、具体的にはどんなセーフティネットがあればいいのだろう?と考えてしまいます。
少なくともそれは、公的扶助(生活保護など)ではないのだと思うし、義務教育を延長する事でもないのだろうと思います。かと言って、他の何かが思いつくわけでもありません。
ひょっとしたら、人間関係というセーフティネットを作る必要があるのかもしれません。けれど、自分の境遇を受け入れがたいときには、自分と共通の何かを有している人に出くわしても友達になるのではなく蔑んだり落ち込んだりする可能性があるでしょう。
そう考えると、結局のところ、その人が自分の人生を受け入れないと、何も始まらないんじゃないかって思ってしまいました。
自分の人生を受け入れられるために、過去の自分をごまかしたりウソをつかないようにしないと、いけないのかもしれないですね。

希望の見えにくい社会

現代社会は希望の見えにくい社会だという指摘を、いくつかのメディアの社説で読みました。
確かにそうだと思います。
ただ、僕は希望が見えにくいというよりも、寛容さが見えにくい社会になったのではないかなと思っています。
例えば船場吉兆の一連の報道を見ていても、報道陣と記者会見した会社重役の間に寛容さが見られなかった。
謝ること、再発防止へ全力で努力することなど、とにかく糾弾することを前提とした対応ばかりだった。
失敗を許容しない社会になりつつあると言うことを、感じます。


そういった現状に対して、何をするといいのかは、よくわからないのですけれど・・・
でも、お互いを容認しあえるような関係性が形成できるといいのだろうと、思います。


*なお文中では、容疑者ではなく加害者と書いていますが、加害者であることに疑いようのない状況であることを考慮してこのような記述としました。