いろんな人に 新生活の祝辞

今日から、いろんな人が新生活を迎えるわけでして。
僕のマイミクさんも、何人かの人が新生活を迎えます。
そこで僕から、新生活(おもに新社会人むけ)の祝辞。

新社会人おめでとうございます。
しかしながら、「社会人」という言葉で就職を示すには、僕は少しの違和感があります。というのは、就職する前は社会人でなかったわけではなく、就職する前から、納税したり学問を深めたり地域の人に喜びを与えたりして社会の一員として生きてきているはずです。
たしかに資本主義においては資本が中心の法体系(きまりごと)になっていますから、資産作りができないことは社会参加していないことと見なされることもあるかもしれません。(それが、就職=「社会人」とよぶ所以でしょう)
でも、資本を稼ぐことというよりは、その資本に込められた願いや理念や価値観のために時間をつかうことが重要なのではないかと思います。それが、こころの社会参加ということではないかなと思います。

さて、ここからはもう一つ別の話。 福沢諭吉という名前を知っている人は多いと思います。 福沢諭吉の言葉にはいくつも含蓄のあるものがありますが、そのうちのひとつに 「一日先に学んだものは師となる。一日遅れたものは弟子となる。師弟に差はなし」 があります。 この言葉を解釈すると、師弟関係というのはある資格の有無や立場の高低で決まるわけではなく、学んだ時期の違い程度のものでしかない、そのように言えます。 このような考え方に基づけば、一日先に学んだもの(師)は、「一日先に学んだだけの違いである」ことを自覚しつつ、自分の知識や経験を体系づけて論理的に説明しようとすることで、思考の整理ができてさらに学びを深めることができます*1
余談ではありますが、大学でいえばTA*2、看護師でいえばプリセプターシップなどは、このことを具現化した方法だと思います。また、広い意味では同級生によるグループワークも、「一日先に学んだもの」と「一日遅れたもの」のコラボレーションと言えるかもしれません。
このように、教わる側も教える側も一体となって知見を深めていく過程を「半学半教*3」といいます。 昨今、よく言われているOJT*4においては、半学半教の精神がないと成功しないと感じています。
さて、この「半学半教」がうまくいくためには、師弟がある条件を備えていることが大事だと、僕は感じています。 その条件は、僕は、1)師弟がともに、当該分野に対して向学心を持っていること 2)師は、教える過程で自分の視野に留まらずに当該分野を再確認(レビュー)すること 3)弟子は、師の展開する論理を冷静に判断すること 4)半学半教はボランタリー*5に基づいて生じていることを師弟(特に弟子)が認識し、師は謙虚さを、弟子は感謝の意をもつこと としてお伝えしておきます。 これらの条件が当てはまるかどうかは、経験しながら冷静に判断してほしいと思います。
新しい環境に入ると、一日どころか一年、数年、数十年先に学んだ人が沢山いることになります。その人たちから学ぶことで得られるものは多いと思います。 すなわち、新しい環境に臨んだ時には、まずは自分の師となる人の弟子となることが肝要なのではないかと思います。
それでは、新しい環境での活躍を願っています。  あんぼ

自分向けの言葉でもあったりするので、メモしました。
(まさに半学半教、かな)

*1:すなわち、師も教える過程で学ぶことができるのです

*2:Teaching Assistantの略。上級生(大学院生など)が下級生(学部生など)に個別的な指導をするときの指導者。また、その制度全般をさすこともある。

*3:福沢諭吉が緒方孝庵の適塾で学んだときに、少人数での学習過程を「半学半教」と呼んでいます

*4:On the Job Training の略で、職場内でスキルアップさせていくこと。

*5:ボランティア精神、と書いたほうがいいかも?