その時歴史が動いた:荻野久作

だいぶ前に放映されたものですが、つい昨日見ました。

生まれくる命 そして母のために 〜荻野久作の受胎期発見〜

その時: 昭和5 (1930) 年2月22日 出来事: 荻野久作の受胎・排卵期の法則を示す学説がドイツの医学誌に発表される わずか80年前まで、女性がいつ妊娠するか全くの謎だった。そのため、不妊や多産で多くの女性が苦しんでいた。この世界的な課題を解明し、受胎・排卵の周期を見つけ出したのが、産婦人科医・荻野久作である。 明治45年、荻野は新潟の病院に赴任。そこで目の当たりにしたのは、不妊、多産で苦しむ農村女性の過酷な状況だった。不妊に悩む女性は、嫁として子を産めないことを責められ自殺、また多産を強いられ命を落とす女性も後を絶たなかった。 「ひとはいつ受胎するのか?」その時期が特定できれば、妊娠調整が可能となり女性を苦しみから救えるはず。久作は、設備も資金もないなか、患者から地道に聞き取りを重ねることで膨大なデータを収集。そして、ついに一つの法則を見つけ出した。それは、“排卵の時期は、月経日前12日ないし16日の5日間”という周期だった。 これが医学会で認められれば、妊娠の計画的な指導が可能となる。しかし、当時日本の医学界は権威のない医師の学説として無視。そこで久作は論文を手に、単身で先進地・ドイツに乗り込んだ。 その結果、“オギノ式懐妊・避妊法”は世界的発見として認められ、婦人医学を大きく発展させることになった。 番組では、不妊や多産で苦しむ女性と生まれくる命を救うため、その生涯を捧げた荻野久作の闘いを描く。

「荻野学説」への評価について

荻野久作が解明した荻野学説は、有史以来の謎とされてきた「人がいつ妊娠するか」を世界で初めて解明したものです。この学説は、現在の産婦人科医学の基礎とされ、荻野学説以降、世界の産婦人科医学が大きな進歩をとげたと評価されています。 荻野学説は、あくまでもを主眼にした研究であり、避妊法の発明ではありませんでした。しかし、後に日本では“避妊法”という一面だけに関心が集まることになりました。もともとこの学説は、次回月経の予測という不確定要素を含み、本来なら詳細な記録と複雑な計算が必要でありながら、「オギノ式避妊法」として安易な避妊法と用いられるケースが出てきました。その誤解した利用法から、避妊法として荻野学説をも否定的に評価する意見もあります。 荻野学説は受胎周期の解明であり、基礎体温法や避妊具が一般に広まった現在、この学説を避妊法として用いることを本人自身否定しています。 番組では、「人がいつ妊娠するか」が分からなかった時代、「受胎調節」の考えを世界で初めて解明した実績、さらに、この学説が基礎となり、その後不妊治療など産婦人科医療の発展が進んだ事実をふまえて、荻野学説を紹介しています。 なお、現在、オギノ式避妊法を避妊法として使うべきでないことは、スタジオでゲストの河野医師が明確に発言しています。

荻野久作医師は、大学を出て地方の町医者として仕事をし始めてから、
荻野理論が有名となって以降も地方の町医者として働き続け、新潟の女性のために
生涯を費やしたと聞いています。
荻野理論は、医学界で注目されたいという欲求ではなくて
自分が接する患者さんに適切な情報を与えたいという欲求のために発表したんだろうなと思えます。
それほどに、女性の出産をめぐる問題は荻野医師に深刻に映ったのでしょう。