野口選手の女子マラソン

ゴールの瞬間を見ました。アテネには、マラソンがマラソンたる由縁である地だと記憶している。だからこそ、すごい。
すごいなぁと思っていたんだけれど、こんなエピソードもあったんだね。

野口がゴール後にみせた「シューズにキス」の秘密
スポーツナビ / 文=梶原弘樹 2004年08月23日

■後半の疲労

 時計の針は午後5時45分、スタートまではあと15分。マラトンの丘はまだ陽が高く、体感温度は35度を超えていたと思う。スタート地点にはまだ選手の姿はなく、意外にのんびりとした雰囲気。突然、野口みずき土佐礼子の2人がサブトラックの方から飛び出してきた。
 2人とも笑顔で、どこか余裕を感じた。歩んだ先には、今回の代表3人が履く特注シューズの製作を指揮した、アシックスの三村仁司グランドマイスター(56)の姿があった。
「調子はどうや? なかなか良い感じやないか」。
 視線の先の野口は、笑顔の中にも、すがるようなまなざしで三村さんを直視して言った。
「昨日はシューズを抱いて寝たんです」

 午後6時、号砲は鳴った。選手たちは勢い良く駆け出していった。オリンピック史上稀にみると言われる過酷なレースの舞台へと。

「シューズを抱いて寝るなんて、製作者としては冥利(みょうり)に尽きますね」
 ゴール地点へと向かう車の中で三村さんにこう聞いた。
「まあ、それだけ愛着があるということやね。そういう子は強いよ」
 眼の奥に、何か確信めいたものを感じた。
 さらに、私には確認しておかなければいけないことがあった。
「3人はどのシューズをチョイスしていましたか?」
「野口はスポンジ底の一番スピードが出るやつや。土佐と坂本はウレタン底の以前から愛用しているやつやね。それがどう出るかやね……。後半の疲労が心配やね」

■コース分析し2種類の靴底を製作

 「スポンジとウレタンの違い」については補足しなければならない。三村さんは「心配した」疲労の度合いに直結するからだ。
 最近の選手が使用するランニングシューズは靴底がウレタン製が主流である。これは、例えば日本の舗装された道路など、整備された柔らかめのロードを走る場合は、材質が硬めのウレタンの方が反発性が良くスピードが出る。
 ところが、三村さんはアテネのコースを2回視察し、さらには3人がコースを試走して「結構、足にきました」という感想を述べていたのを聞いて、ある確信を持っていた。
「所々大理石が混じっているここの舗装道路は硬くて滑りやすい。ウレタンよりもスポンジを使った方が足の衝撃(加重)が弱まり、『足のスタミナ』のロスが防げるんじゃないか」ということだ。

 シューズ作り30年を数える職人の独特な勘は、正確な状況分析からも導き出された。
「今回のコースはね、路面が硬いだけでなく大理石が混じっているんで滑りやすいんよ。水をまくらしいから余計ね」
「さらに言うとね、前半に細かいアップダウンがあるでしょ。加重というのは登りが通常の2.5倍で下りが3.5倍程もかかるんですわ。今回のコースは6キロ過ぎから17キロ位までずっと下りが続く。そやから、ここで足に負担があったら、後半のスパートはかけられんのですわ」。
「野口が勝つとしたらね、彼女は下りが苦手なはずやから、この前半のなだらかな下りでいかにロスせず走って力を温存し、20キロ〜30キロの登りのどこかでスパートするパターンだね」

■前日インタビューの通りになったレース

 この一連の話を聞いたのは実は、レース前日のことだった。まるで、翌日の野口のV走を予想したかのようだった。
「3人のうちでは野口が一番調子がええね」と仰るものだから、「どうしてそうお思いですか?」と尋ねたら、
「ワシの言うた通りのシューズを、迷いもなく履いとるでしょ。ということは調子がええっちゅうことですわ」
「坂本は直前になって『やっぱり履き慣れたウレタンでいきます』言うから、急遽(きゅうきょ)作って持ってきたわけ(アテネ入りしたときに空港でシューズを渡した)。前半で疲れが出ないか心配やなー……」

 正直いって、今回の結果がシューズのみに起因するわけではない。ただ、「微妙なアップダウンが続く31キロ付近に差し掛かったところで多分勝負はついていると思うなー」と前日に語っていた三村さんの眼力に狂いはなかった。
 オリンピックという誰でも勝利を優先する大舞台で、25キロ過ぎという早めのスパートに出た野口の頭の中には、「このシューズは私にスタミナを温存させてくれているはずだ」という信念があったはずだ。でなければ、いかに作戦とはいえ、あのタイミングで前に出る勇気はとても持てない。

■「シューズにキス」は野口の感謝の印

 有利といわれたラドクリフ(英国)が苦悶(くもん)の表情を浮かべながら失速する姿、ゴールをして次々と担架で運ばれていく選手たち……。それに比べて、最後まで飛ぶようにストライドが落ちなかった野口の走りは何と美しかったことか。
 今回のタフなコースは、三村さんの30年の経験と感性を紡ぎ合わせた最高傑作品を生み出させる、格好な舞台となったのだ。
 レース前日はシューズと一緒に床に入った野口。テレビ局各社の特設スタジオを周回した後に休む枕元には、再びそっとシューズを置くに違いない。