Shared Decision Makingの話題があった

もう、10年以上皆勤賞を続けている、一般社団法人 日本精神保健看護学会の学術集会。

きょうは、いくつかの演題に座長として関った。司会進行は、慣れているので気が楽。
Shared Decision Makingの話題も出たりして、フロアの皆さんにも発見の多い時間だったんじゃないかな。
Shared Decision Makingについては、既にいろんなところで記述があるので、一つ紹介。

精神科医からみた看護師と薬剤師の連携 」
市立札幌病院 精神医療センター 上村 恵一
 昨今の医療においてはインフォームド・コンセントの先を行くshared decision makingの重要性が指摘されている。患者と医療者が共に互いの情報を共有し合い患者が利用する医療を決定していく考え方に基づいており、医療の質と患者満足度を高めるコミュニケーション手段として注目されている。特にがん医療、心疾患、精神医療において取り入れられている。shared decision makingにおいて合意に向かうための最重要課題は、「医療者と患者がお互いを専門家として尊重すること」と指摘されている。つまり、患者は自分自身の疾患体験者として誰よりも自分の価値観を知っているという意味で専門家であり、医療者は医学的診断と治療に精通しているという意味で専門家であることを指している。

 しかし現時点で精神医療の分野でのshared decision making普及率は極めて低い。この領域においては精神科医が、薬物療法を始めとする治療の決定権を有することがまだまだ趨勢となっている。shared decision makingには3つの段階があり、第1に双方向からの情報交換、第2に協議、第3に患者の価値観や好みに合った治療選択である。第1段階より先には進めていないのが現状でありその理由としては、患者が医師に従うという文化、医療者側の偏見、時間的制約などが指摘されている。
http://ameblo.jp/yakukan/entry-11451157351.html より
(孫引きぽいので引用元を参照してください)

 精神科でこのことを扱う場合には、ご本人自身が価値観や好みを忘れている場合があるので、価値観や好みを見つける(発掘する)というプロセスが、けっこう大事だと思うのです。
 そのあたりの話は、手前みそですが、以下の本にて。

向こう20年の人材に重要そうな事

現代日本
いくつかの不都合がもうすぐやってくる。
その最大の不都合は、「若者に仕事がない」という不都合。*1
たぶんもう一つの不都合は、「公務員という仕事が切り捨てられていく」という不都合。


きょうは、一つ目の不都合について。
若者に仕事がないという状況は、既にギリシャで起きている。生産人口に対する失業率が20%程度であるなか、若者の失業率が50%を超えているという報道があったらしい。
裏取りしていないのでこの情報は間引きして読んでほしいのだが、それでもこの状況は、財政破綻または危機に陥る多くの国で発生することのようだ。


ただでさえ、日本という国のGDPは、現在起きている円安によって目減りが進行している。ドル円が85円だった頃から現在を比べると、17%くらい目減りしていることになる。


もし、日本の財政危機が起きると、一気に不景気になるのでお仕事が減る。少ない仕事に人が殺到するので、経験者ではない人はますます仕事の口が無くなる。
若者には、若いことが明らかに有利である仕事(例えば、窓口を含めた肉体労働、明らかに上世代が経験していない領域の仕事)でないと仕事がないという状況になる。財政危機になると公務員の待遇を切り下げるしかなくなるので(しかも、日本の場合、公務員が高待遇だから的なギリシャみたいな報道がまかりとおるので)、公務員業界でも非正規化が進行する(たぶん外郭団体系、インフラ維持系は一気に非正規化が進む)。


しかもIT技術の進歩により、いわゆる事務的な仕事、シンプルな判断だけを行う仕事はなくなっていく。


コンピュータの飛躍的発展(演算処理速度の飛躍とインターフェイスの飛躍的改善)が、軽度の頭脳労働をコンピュータに委託できるようになってきている。
例えば、簿記の資格を持っている人を雇うことと、簿記の機能をもつワークシートの内容を扱えるコンピュータをもつことは、機能として大差ない。よって、いわゆる「事務」は非正規化などの実質的な必要人員の減少を招いている。
おそらく十年程度の後には、事務機能のほとんどがアウトソーシングまたは電子化されるだろう。最終的には、意思決定の機能(つまり、最上位管理職クラス)だけが恒常的に必要な人材となり、その他の人材は、引き継ぎなどに必要な時間を計算して、正規か非正規かを考えるようになって行くだろう。


金銭の授受が生じるために正規社員が必要とされているいくつかの職場でも、電子マネーの流通が本格化すると正規職員は必要ないという判断になっていくだろう。例えばコンビニエンスストアファストフード店では、おそらく現時点では1店舗に1正規職員がいるのではないかと思われるが、その職員さえ契約社員という形態になっていると予想されるし、そのうち、日雇い・月雇い・年雇いの3段階の契約社員またはアルバイトによって構成されるようになるだろう。もっと大規模な店舗、例えば大規模ショッピングモールでも金銭がデータ化されていると思われるので各テナントで正規職員が必要と判断しなければ正規職員は必要なくなる。もし非正規職員が金銭関係の不正を行ったら解雇すればいいだけなのである。


さらに教育や学習に関する分野。おそらく数年の間に、学習システムはスマートフォンなどでアクセスできる動画サイトによって変革していくだろう。例えば病院や福祉施設の職員は、必要な時にタブレット端末などでマニュアルを動画つきで呼び出して学習・練習するようになり、必要な技術を全うしている職員を正規職員、それ以外を非正規職員とするようになるだろう。また、高校などの義務教育以降の教育機関では、通学や着席制の講義に対するニーズがさらに低下し、そもそも動画サイトで高校の授業が聞けるとその高校の教員の講義を聞くより十分にいいという状況になり、はじめは学校内不登校(例えば図書館などで動画サイトを見て自習)が顕在化し、そのうち学校という空間は教師が教えるのではなく、教師が情報源や学習動機づけをする人になるよう変革を迫られるだろう。その結果、高校等の学校では教員は少なくてもいいという判断になり、私立校(特に専門学校)や公立校の分校(過疎地域にある学校)などから人員が削減されていくだろう。


今後、必要になっていくのは、価値づくりのスキルである。
管理職には「優秀な部下が引き抜かれないくらいの価値を職場に持たせる」「その職場のプロダクトに新たな価値を付与する、または価値を強化する」などのスキルと、その裏打ちとなる教養が必要になるだろう。
そもそも商売や仕事と言うのは、広い意味で価値を創造し、その価値に値段がつけられないと相手が思うことで成立しやすくなる。新規産業というのは、だいたい「そのもの(サービス)の値段がわからない」ために高値をつけ、仕事として成立しやすくするのである。


となると「検索すれば誰でもわかる」ことを知っているだけでは意味がない。
例えば、歴史だったら「何年に何が起きた」という事実関係を知るだけでは価値の理解がないので、「何が価値となって人々は行動したのか(その事象は起きたのか)」という人間の理解とつながる必要があるし、多面的な視点(科学の発展との関係、哲学や宗教学などの生き方の通念との関係)などを理解する必要がある。
例えば、音楽などの芸術だったら、現代アートやアニメーションなどの現在の潮流を知るだけではなく、古典芸術に見られる美の概念からのつながりを知っている方が有益である。基本的な芸術のスキルを高めることの意味は、現在よりも今後の方が重視されるようになるだろう。

*1:これは、国家財政の危機または破綻と関係する

ドラマ「カレ、夫、男友達」

きょうから明後日まで、京都で研修を行っています。


その研修は、健康行動とその増進に関する研修。
人は合理的に*1行動を決められるわけでもない、という前提に立って相手の価値観や信念に沿った行動決定を支援していく、そのための介入の研修。
価値観や信念に沿った行動決定を支援するためには、従来使われがちな合理的判断の指標である利益/不利益の両方を引き出す事が重要なので、不利益に関する認知を聞いていくことを重視している。


さて。がらっと話を変えます。(けど関係のある話。)


11月から放送されている、NHKカレ、夫、男友達」というドラマ。
江國香織の「思いわずらうことなく愉しく生きよ」という小説が原作。
このドラマと小説、3姉妹の物語。他人の行動を受け入れ、相手を傷つけず、自分の選択に責任を持ち、自分に起きる様々な事を受け入れようと工夫できるがために、却って苦労したり不器用だったりする話。
例えば長女の麻子。徐々にエスカレートするDVをひたすら受け入れ、取り繕う。そうすることでいずれ解決できるのではないかと盲目的に思っているのか、いないのか・・?
この小説でおもしろいなぁと思ったのは、父親を大学教授、かつ再婚をするために離婚をしたという設定にしたこと。そうすることで、三姉妹に共通する考え方「自分の選択に責任を持ち、工夫することで切り抜ける」が醸成されていることの説得力を持たせている。
例えば、三女は彼氏が他の女性とデートしているのを見た後のデートで、「じゃあ曜日を決めてつきあう?」と提案する。これって、如何にも変な応答なんだけれど、「そういう彼氏と付き合うことにした自分の責任」を考え、「相手を傷つけず」「工夫する」と、曜日を決めてつきあう、になる。三女はこの工夫が高度で、皮肉に受け取れる知性化された対処になっている。けど、同等の知性を持つ人でないと皮肉を半端にしか理解できず、恥をかかされたと思うか意味のわからない奴と思われちゃって、結局関係がうまくいかなくなる。
長女の場合。DVをうけても「相手を傷つけず」「工夫する」と、DVの存在を隠す事になる。残念ながらこの方法は奏功せず、却ってDVをエスカレートさせる。なぜって、おそらく夫は情緒的な関わりを求めているのだ。泣いたり笑ったり、例えばDVに対して怒って叱られたり、または事実を明らかにするため後片付けをしなかったり。ところがDVを受けている麻子は夫に情緒的な関わりができるはずもなく、恐怖心を隠そうとして、でも一方でDVにも対処できる自分を表明したくて行動している。それが却って、夫のDVを抑止できなくさせているようだ。


この小説とドラマを通じて、僕が感じることは何かと言うと、負の感情は負の感情で、取り扱い方があるのだ、ということ。負の感情を持ってもそれを他人に見せてはいけない、それはアホのすることなんだ、みたいな信念が3姉妹にありそうなのがおもしろい。自分の能力や選択の適切さを否定したくないという考えによってどんどんおかしな意思決定がおきていくというところが、非常におもしろかった。
それと、こころの機微を扱うフィクションは女性が主人公の方がおもしろい。男性でこういうテーマを扱うと、企業ものとか時代ものになりそうで、利益対立とか職場内権威関係とかがでてきて、心情が見えにくくなるんだもん。


夜更けなこともあって収拾がつかない文章になってきたので、この辺で終了。。

*1:利益と不利益を計算して

金ヶ崎で講演しました

きょうは、午後から金ヶ崎町へ行き、地元の民生委員さんや町内会の方、当事者の方、ご家族などの方々に向けた講演会を行いました。


民生委員さんも、町内会の方も、当事者の方も、ご家族も、私と利益関係がなくお聞き下さる方々ですし肩書にも無頓着でいてくださるので、そういう意味では、非常に目の肥えた聴衆なのです。
だから、私は、こういった場で話す事が好きです。


自分の表現、自分の考え、自分の行動が、最も試される時間。
専門用語でけむに巻いたりしない主義の私。
平易な言葉で誤解を招かないようにするのは、けっこう集中力を必要とするのです。
規範による統制が難しい理由、対立が起きた時の状況判断の仕方など、表面的ではないテーマを扱いました。


冒頭よりも終演時の方が大きくなった拍手を聞いて、自分の普段の仕事にエネルギーをもらって帰宅しました。
世の中は、変わっていきますよ。身近なところから、少しずつ。

DVDの撮影をしました

この週末は、DVDの撮影を行いました。
内容は、怒りのコントロールに関する介入プログラムの解説DVD。
土曜日:午前9時から午後9時、
日曜日:午前9時から午後5時半。
世の中の俳優さんたちの仕事の大変さを、強ーく実感しました。


自分とやや異なる立場を演じることの精神的なエネルギーの必要性。
台本や脚本を校正していくことの大変さ。
協力して下さるカメラマンやスポンサーさんへの気遣い。


ホント、大変な仕事だなぁ。


そう考えると、ラジオ放送の収録も大変な事だよね。
WRAP研究会いわてが行っているラジオも、きっと苦労の連続なんだろうなー。


立冬間近の空を見ながら、そんなことを考えました。

imagineするより

最近、あなたのおかげで、震災後数カ月は感じなくてすんでいた出来事に晒されてる。
それは、私達の住んでいる地域の外のあなたたちが、支援と言いながら自分たちの名を上げようとやってくること。
そういう人たちは、得てして「協力」を言いながら具体的なプランを持たずにやってくる。
パートナーシップを言葉ではいうくせに、相手(わたしたち)を理解しようともしていない。ただただ不躾で無礼な振る舞いをしてくるんだね。


そういうことを私が言うと、あなた達はこういうでしょうね。
「いやー君達のことを想像しようとしているよ。だからこそ、協力しようと言っているんじゃないか。パートナーシップだと言っているじゃないか。」


あぁ、悪い冗談はやめて。


ノーガードの状態で「自由意思」に基づいた「自由な意見の往来」をしたらどうなるか、あなたたち、それはわかるでしょ?
強者の論理の方が声が大きくなり、弱者の論理が踏みつぶされるの。
しかもそれは、実際の強者と弱者じゃない。
自分たちが強い偉いと思いたいという、欺瞞や誇張に満ちた、自己主張の強者の論理が大きくなるの。
本当はコンプレックスや成長欲求の強い奴らの欺瞞に満ちた論理でさえ、声の大きさのせいで通りやすくなるの。


私たちや私達の近しい人たちはね、弱者の論理をかき消してしまわないように、小さめのコミュニティやソーシャルの中で、一人一人を大事にしながら生きているの。
辛かった出来事の再体験に侵されないように、たくましいけれどつつましく生きているの。


勝手に私達を弱者よばわりして、勝手に自分を強者化してヒーローになろうとするのは、やめてくれないかな。


imagineできないんだったら、つつましくアクションしてみてよ。
もう、imagineの時代は終わったの。
actionすれば、imagineよりリアルな実感が得られるんだよ。


私達のことをエンパワメントしてみてよ。
人格や文化を護り、安心や安全を保てるようにしてよ。
欺瞞に満ちた利益行為のために、私達がいるんじゃない。
ねぇ。

「ねばならない」の断捨離

きょうは、研修に参加してきました。
メンタルヘルスの当事者とそれ以外の人が一緒になって考える研修。


後半の時間に、「地域支援で大事な事って?」というテーマでディスカッション。
パートナーシップに関する事、安心と安全に関する事など、いろんな話題が出てきて面白かったんだけれど、そのなかでなかなか抽象化が難しいものがあった。
例えば「ひとりのエネルギーやリソースには限界があること」「一人で抱え込まない」のようなこと。
うーん、どういう風に考えればいいんだろう・・と思った頃、ある参加者が・・
「日本の社会って、『ゆとり』とか『ねばならない』とか、そういう概念にとらわれているんじゃないか。」とコメントして書き込み。


あっ! そうか!


『ねばならない』といった狭い視点から脱却することが大事なんだ!


そういう発見をした私達は、そのグループを「『ねばならない』の断捨離」と命名
いやーこの発見はおもしろい。


そうかーパートナーシップとか安心と安全とか、そういう「当たり前っぽい事」をするのが地域での支援なんだけれど、そういうことをやればやるほど、「ねばならない」の考えになりがちなんだ。
だから、ときどき断捨離が必要。しかも、考え方の断捨離。
これって大事だなー。すごーく大事だなー。


いやーいい発見した。